《 第38話 運命の扉の前で 》 つづき
チュイルリー広場にて
「我々の考えは少し甘かったようだ」
「だが、ここはどうでも、とにかく信じて貰わねばならない」
右手に銃、左手に剣。
それらを重ね合わせ、右手を逆手に滑らせ握りなおし
くるりと捻ってアランにさし出す。
こちら普通の、なんということのない一連の動作ですが
所作に無駄のない和装の人を見かけた時のような
静かな美しさを感じます
剣の長さとか細かい辻褄いえば、ん?な所もありますが(笑)
ここ、もっと単純な動きにして済ませる事もできたはずなんです。
それをあえて丁寧な手捌きにしてあるあたり。制作すたっふGJ
こういうちょっとした部分の綺麗さが
オスカルさんの魅力のひとつでもあると思います~。
まぁ惚れた欲目なのでしょうけども えへへ
そして市民との対話に丸腰で臨む隊長さん。
武器を預ける相手がアンドレじゃなかった・・・そうかそうか。
眼のこともあるから、危機管理はアラン担当という事で?
アンドレはなるべく危険から遠ざけたいという事で?(妄想)
オスカルさんのスピーチと、ベルナールが信頼を示した事で
市民諸君からの一応の信任を得、再び戦闘行動へ。
原作のこの辺りの場面、ちょっと好きでした。
単なるお飾りではなく、オスカルさんが
兵の指揮を執ってる様子に説得力があって
※市民側に付いてからの闘いのトコロです
けれども逆に、アニメはここで、ちょっと凹み加減になります。
アンドレの具合は急激に悪くなるし、ところどころ戦いの生々しさもあり
見ていると、どんどん追い詰められて、気分はすっかり谷底へ どよん
たぶんこれは、先が判っているせいもあるのかも。
原作では最後に「勝ちとった達成感」のようなものが
それなりにありますでしょう。
けれどもアニメにはそれがない。
・・・ホントに欠片もないんですよね
その辺の違いが凹気分の元になっているのかもしれません。
私、このアニメでは、オスカルさんが民衆側についた時点では
王制自体を否定してはいないと思っています。
というか原作でも、本人は王家打倒を目的には動いていませんでしょ。
結果としては、ああいう結末ですから全体がそうなって動いて見えますけど。
原作ではそれこそかなり学んでいる様子が伺えますが
こちらのオスカルさんは、この辺、黙って俯いちゃうから判り難く
行動の元となるものも違っているような感じはありますよね。
アニメの彼女が願っていたのは共存共栄の方向ではないのかしら。
王が民に銃を向けたら、全ての関係性が壊れ戻れなくなってしまう。
だから両者の幸福を再生する”可能性を守る為”に動いた気がするのです。
(というか私の願望かな。ここまでくると)
いま以上の最悪の事態を防ぎたい、押し止めたい一心で
民衆の楯となったのではないかとも思うのです・・・。
フランス革命自体、対立構造もそんな単純なものではありませんし
オスカルさんが動いたこの時点では、まだほんの入り口。ごく序盤。
私自身このあたり、今迄そんなに突っ込んで考えていたわけではないので
何となくレベル、で言っております。申し訳ありませ~ん
それにしても自分、実はまるきりこの38話の粗筋を忘れていました。
前回の『アンドレさんもうヤバイです』という予告にすっかり騙され
録画したものの気分は御通夜で、なかなか見る事が出来ずにおりました。
うだうだしてたら、察した友さんが教えてくれました。
『 アンドレまだ生きてるよ 』
『 えぇ!? 』
マヌケなわたし
今は執行猶予がついた気分です。ほんの少しだけど。
あ、でもですね、自分的には最終話ではなく、次の39話がシリーズ通して
一番ベタ泣きして潰れる回なので、こちらの更新はまたしても遅れますデス。
そして、この再放送を追いかけての書込みはそれが最後かも。たぶん。
義務でも仕事でもありませんから、通常、趣味の領域で、ここまで気張って
観ようとする事はないのですが、やはりベルサイユのばらは特別で。
なんというか、ここまできたら最後まで、この人達の生き方を
オスカルさんの生き様を、見届けなくてはいけない気持ちになるのです。
紙の中、映像の中だけの存在ではありますけれど
確かにそこに、生きているので。
チュイルリー広場にて
「我々の考えは少し甘かったようだ」
「だが、ここはどうでも、とにかく信じて貰わねばならない」
右手に銃、左手に剣。
それらを重ね合わせ、右手を逆手に滑らせ握りなおし
くるりと捻ってアランにさし出す。
こちら普通の、なんということのない一連の動作ですが
所作に無駄のない和装の人を見かけた時のような
静かな美しさを感じます
剣の長さとか細かい辻褄いえば、ん?な所もありますが(笑)
ここ、もっと単純な動きにして済ませる事もできたはずなんです。
それをあえて丁寧な手捌きにしてあるあたり。制作すたっふGJ
こういうちょっとした部分の綺麗さが
オスカルさんの魅力のひとつでもあると思います~。
まぁ惚れた欲目なのでしょうけども えへへ
そして市民との対話に丸腰で臨む隊長さん。
武器を預ける相手がアンドレじゃなかった・・・そうかそうか。
眼のこともあるから、危機管理はアラン担当という事で?
アンドレはなるべく危険から遠ざけたいという事で?(妄想)
オスカルさんのスピーチと、ベルナールが信頼を示した事で
市民諸君からの一応の信任を得、再び戦闘行動へ。
原作のこの辺りの場面、ちょっと好きでした。
単なるお飾りではなく、オスカルさんが
兵の指揮を執ってる様子に説得力があって
※市民側に付いてからの闘いのトコロです
けれども逆に、アニメはここで、ちょっと凹み加減になります。
アンドレの具合は急激に悪くなるし、ところどころ戦いの生々しさもあり
見ていると、どんどん追い詰められて、気分はすっかり谷底へ どよん
たぶんこれは、先が判っているせいもあるのかも。
原作では最後に「勝ちとった達成感」のようなものが
それなりにありますでしょう。
けれどもアニメにはそれがない。
・・・ホントに欠片もないんですよね
その辺の違いが凹気分の元になっているのかもしれません。
私、このアニメでは、オスカルさんが民衆側についた時点では
王制自体を否定してはいないと思っています。
というか原作でも、本人は王家打倒を目的には動いていませんでしょ。
結果としては、ああいう結末ですから全体がそうなって動いて見えますけど。
原作ではそれこそかなり学んでいる様子が伺えますが
こちらのオスカルさんは、この辺、黙って俯いちゃうから判り難く
行動の元となるものも違っているような感じはありますよね。
アニメの彼女が願っていたのは共存共栄の方向ではないのかしら。
王が民に銃を向けたら、全ての関係性が壊れ戻れなくなってしまう。
だから両者の幸福を再生する”可能性を守る為”に動いた気がするのです。
(というか私の願望かな。ここまでくると)
いま以上の最悪の事態を防ぎたい、押し止めたい一心で
民衆の楯となったのではないかとも思うのです・・・。
フランス革命自体、対立構造もそんな単純なものではありませんし
オスカルさんが動いたこの時点では、まだほんの入り口。ごく序盤。
私自身このあたり、今迄そんなに突っ込んで考えていたわけではないので
何となくレベル、で言っております。申し訳ありませ~ん
それにしても自分、実はまるきりこの38話の粗筋を忘れていました。
前回の『アンドレさんもうヤバイです』という予告にすっかり騙され
録画したものの気分は御通夜で、なかなか見る事が出来ずにおりました。
うだうだしてたら、察した友さんが教えてくれました。
『 アンドレまだ生きてるよ 』
『 えぇ!? 』
マヌケなわたし
今は執行猶予がついた気分です。ほんの少しだけど。
あ、でもですね、自分的には最終話ではなく、次の39話がシリーズ通して
一番ベタ泣きして潰れる回なので、こちらの更新はまたしても遅れますデス。
そして、この再放送を追いかけての書込みはそれが最後かも。たぶん。
義務でも仕事でもありませんから、通常、趣味の領域で、ここまで気張って
観ようとする事はないのですが、やはりベルサイユのばらは特別で。
なんというか、ここまできたら最後まで、この人達の生き方を
オスカルさんの生き様を、見届けなくてはいけない気持ちになるのです。
紙の中、映像の中だけの存在ではありますけれど
確かにそこに、生きているので。