バスチーユへの襲撃、陥落が7月14日のこと。
その時、命を落とした人々のためのミサが8月5日、執り行われました。

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 バスティーユの死者の葬儀 1789.8.5 

攻撃側の死者は98名、負傷者は73名にのぼった。
ほとんどの人々が貧しい職人か賃金労働者であった。
 ~略~
8月4日夜、国民議会ではあらゆる封建的特権の放棄が熱狂的に決められた。
新しいフランスの姿がほの見えている。その前に死者を葬らねばならない。
8月5日朝、ノートルダムの中は黒い喪の幕で覆われ、人々はひっきりなしに
死者のためのミサに集まってくる。
 ~略~
まだフランスがどこへ向かうかはっきりしていないとき、国家や議会が
バスティーユ占領に命を捧げた人々の葬儀を公然と挙行することは
なかったのである。


銅版画フランス革命史 読売新聞社



公式…ではなさそうですが執り行われた葬送の儀。
つい、忘れてしまいそうになるのですが、当時の人びとにとっては
バスチーユが陥落したからといって、これで一気に物事が進んでいくとは
少しも思っておらず、逆に再び王の軍隊が盛り返してきて、自分たちは元通り
鬱屈した暮らしへと追い返されたり、反逆に問われる可能性もあったのですよね。
なのでこのミサもどこか密やかな行動にも見えます…。
歴史のその後(結末)を知っていると、つい逆算して物事を考えてしまいがちになるので
気をつけなくちゃ


ベルばら漫画版では、バスチーユ陥落後の死者の行方については一切触れていませんが
アニメ版ではオスカルさん方々の墓は、アラスの丘にあると言及されていました。
アラスはジャルジェ家の所領なので「ああ、ちゃんと家族に送ってもらえたんだわ~」と
個人的にはひと安心しておりましたが、同じくバスチーユ攻撃の際に命を落とした
衛兵隊員の家族さんは、このミサに集っていたかもしれませんね…