ジャンヌ・ド・ヴァロア(1756-1791)

少し長めで卵型の顔立ちに、三日月型の黒い眉と青い瞳
茶目っ気のある陽気な話し方で、きれいな歯をしていたが
どこか冷たくかみつきそうで、野性的なところがあった(一部略)

ミシュレのフランス史 (5) では、首飾り事件の章に
ジャンヌの生い立ちや、周辺人物についても記されていました。

CIMG9978a

(大まかな流れ)
サン・レミー伯爵亡き後、母と子供3人でパリへ出る。
極貧生活を送っていたところブーゲンヴィリエ伯夫人に救われ
ルイ16世に紹介されるも、厄介な血筋として危険視され
結局ロンシャンの修道院へ入れられる。

そのまま修道女になる気はなく大人になると脱走。
シャンパーニュ地方にある祖先の土地へ向かい
その地でド・シュールモン夫人に助けられる。

夫人の甥、ニコラ・ド・ラモット(元近衛兵・退役軍人)
手籠めにされ結婚。※結局子供は死産
それでもジャンヌはあきらめず、一人パリに向かい
先祖の土地を取り戻すべく活動を始める。

※この頃、しばしば夕食を提供してくれた同郷人の弁護士
ブニュー氏が後年、ジャンヌについての回想録を記す

紹介されたロアン司教に気に入られ、14人の召使のついた
邸宅で暮らし始める。
以降、彼女は四頭立ての馬車に乗ってヴェルサイユへ出掛け
先祖の土地の返還を求める陳情を行うようになる。

ポリニャック夫人には無視され、財務総監カロンヌには
はした金で追い払われようとしたが、国王の義妹である
アルトワ伯夫人や、反ポリニャック派からは歓迎された。
王妃からも援助を得たが、実際に会っていたかどうかは「?」。


首飾り事件が起きる以前は、このような流れで
特に意識していませんでいたが、この頃のロアン司教…50歳でした。
ベルばら絵の印象から、漠然と若い感覚だったのでちょっとびっくりー。


巨万の富をもちながら、ロアンはそれにふさわしい人物ではなかった。
~略~
五十歳にして身も心もすり切れており、美しい外貌をもちながら無気力で
ちょっとした危険に出会ってもすぐころげ落ちてしまいそうだった。
~略~
ヴァロア家の末裔を手許に置き、世話するならば、フランスで最も高貴な
愛人をもつことになるだろう。
これ以上にロアンの自尊心をくすぐるものはなかった。

だ、そーでございます。 ふ~ん
こちらミシュレのフランス史の本には、執筆の原資料となった手稿や
稀覯本の書名がいちいち記載されているのが、個人的に好感触。

専門に学んでいない私には、読んで判断する事や
そもそも原本を知る機会もありませんが、同じ資料を元に
異説を唱える書があった場合、比較が容易という利点がありますので。
逆に書いてないものは、根拠や引用元はどこ?と思うこともあったりして。

ただね、先にちょっとあげたブニュー氏によるジャンヌの事が書かれた回想録は
氏の死後、1866年発行という事でこちら、他者の余計な思惑が入ることなく
世に出たのかしら?という微妙さはあったりするのです。
執筆者が生きているうちに発行されたならば素直に受け取れるんですけど。



つづく