
エマニュエル・ド・ヴァリクール著 原書房
本書で取り上げられているのは
ローザン侯爵・ブザンヴァル男爵・ヴォードルイユ伯爵
フェルセン伯爵・エステルアジ伯爵 の五名。
取り巻き関係に興味はなかったけれど
なにか違う風景がみえるかな?と手にしてみたら
読んで一番気になったのはポリニャック夫人。
う~ん。我ながら意外
おやや
ということで夫人の部分だけをプチまとめ。
ヨランド・ド・ポラストロン
(のちのポリニャック伯爵夫人)
元々の性格は素直で控えめ、怠惰な安寧を愛し知性は平均的。
幼くして母と死別、父は再婚し姉のアンドロー夫人に娘を預けた。

ヨランドが無口なのは、自分の意見を持たないからだ。
メルシーも「知性という点では、彼女はごく貧弱です」と書いている。
修道院にいた14歳のとき、ヴォードルイユ伯爵と出会う。
1767年7月6日パリのサン=シュルピス教会にてポリニャック伯爵と結婚。
ポリニャック伯爵はロワイヤル・ポーランド連隊の中隊長。
過去には枢機卿を輩出していた家柄だったが困窮4000リーブルの年金で生活をやりくり。
新婚の夫妻はパリ郊外、モー近くのクレ=アン=ブリー城に住む。
こちらにヴォードルイユと伯爵の妹であり野心家のディアーヌが加わり
マフィア的集団を形成していく。
1769年

ルイ15世の新たな寵姫デュ・バリー伯爵夫人が紆余曲折を経て
ようやく4月22日に公式に宮廷に上がるのだ。
彼女については様々な恥ずべき噂が流れていたが、新「女スルタン」は
おっとりして感じがよく、友情に厚く、自らの社交界を持ちたがっていると
言われていた。
数週間後、ヴェルサイユのボン・ザンファン通りに小さな住まいを得
伯父や伯母の紹介をうけて宮廷に上がる。
ポリニャック伯爵夫妻、この時点では成り行き任せのよう。
伯爵の妹ディアーヌやヴォードルイユらが活動し徐々に王族のプライベートに入り込んでいく。
1775年春、ルイ16世戴冠。
アルトワ伯爵夫妻と友人達が庭園のオランジュリー近くで遊んでいた時
王妃一行が通りかかり、ポリニャック伯爵夫人を見かけ名を尋ねた。
「ぜひまたお会いしたいからもっと頻繁にいらして」

ヨランドは本能的に、信頼できる者たちで周囲を固めて宮廷の
敵意から身を守ろうとしたのかもしれない。
彼女にとって宮廷は見知らぬ世界であり、一族や友人の存在は
安心感を与えてくれた。
最初の頃は、王妃もポリニャック伯爵夫人も遊び呆けるだけで
国事に興味はなかった。
ヴォードルイユ伯爵と義妹ディアーヌが、ひたすら策士だった印象。
1780年、女帝マリア=テレジア没した年、ポリニャック伯爵は世襲侯爵に格上げ。
ポリニャック伯爵夫人はこの頃から、自身の支配力に自信をもち
横柄さがあらわれるようになる。

「ポリニャック伯爵夫人を恨んではいません。本当は善良な人ですし
私を好いてくれています。けれど周囲の者たちに従わされているのです」
この心理はありがちかも~。
自分の好きな人のことは否定したくないので
不愉快さの原因(責任)を大事な人以外の他人に転嫁。
バスティーユ陥落後、ルイ16世は彼らに宮廷を去るよう命じた。
7月16日ポリニャック侯爵夫妻は一か月前に出産したばかりの娘や
ディアーヌ、バリエーヴル神父と共に、着の身着のまま出発。
馬車の馬替えのために足止めをうけ、21日スイスに到着。
8月14日ヴォードルイユと再会。その後ローマへ。
王妃処刑の二ヶ月後
1793年12月4日…5日の夜、ヨランドは息を引き取る。
はぁ
本書ではこのような流れ。

ベルばらでの姿とは違った印象を受けたのが新鮮~。
ヴォードルイユ伯爵が修道院にいたヨランドを認めなければ
ポリニャック伯爵家に嫁ぐ事も、宮廷にあがる事も
そもそもなかっただろうから、今とは違った歴史を辿ったかも…。
