日記を読みました。
227年前の日記。
フランス革命下の一市民の日記
セレスタン・ギタール著 中央公論社
記されている期間は1791年1月から、1796年5月まで。
ベルばらで例えると、オスカルさんが没した翌々年から始まり
王家に連なる人々が次々と姿を消したあと、ひとり残された
マリー・テレーズ王女が幽閉されていたタンプル塔から出され
スイス(経由オーストリア)へ移送されたその翌年までの記録。
ということでベルばら度はごく低く、ぶっちゃけ地味~な本でごじゃります。
書いたのは第三身分のブルジョアで、病弱な60代の年金生活者さん。
フルネームには自称で " ド "つけ、勲章も所有していたご様子。
もっともそれらは裏付けのない、この時代のどさくさ紛れに得た
いわば「見栄をはるためのもの」だったようで、社会制度の変化により
その価値がなくなった途端、処分してしまう記述もありましたが
この日記から見えてくるのは、十分な資産を用意していたはずなのに
物不足やインフレに悩まされる執筆者ギタール氏の暮らしと
その動乱期のパリの様子です。
ギタール氏の手稿(1794‐6部分)
ベルサイユのばら終盤に登場する大きな出来事として
バレンヌ逃亡事件がありますが、こちらを読んでいたら
それ以前にも、すわ逃亡か!?と市民を驚愕させた出来事がありました。
1791年 4月18日
チュイルリー宮の中庭をでたとき、馬車は民衆に阻止された。
有名なバレンヌ逃亡事件は、同年6月20日決行ですが、その二ヶ月前に
チュイルリー宮から、一家揃ってサン・クルーへ出発しようとしたところを
民衆に阻まれ、諦めて宮殿へ戻るという出来事がおこりました。
この日記の書き手さんは
「いまは五里霧中で未来にならないと自体ははっきりつかめない
~略~ このことにわたしは完全に打ちのめされてしまった」
と、やたら凹んでしまったご様子。
翌日、国王は議会で「サン・クルーへ行きたい」と演説するのですがあっさり却下され…。
民衆は " 国王が国(自分達)を捨てる " などという事が冗談ではなく、実際に起こり得る
のだという事に気がつき、親に見捨られる子供のような恐怖心をもったのかな~という
印象を受けました。見捨てられる、ではなく、裏切られる、という方かしら?
これがあったせいか、この後に起きたバレンヌ逃亡時の記録は、むしろ簡潔です。
そしてヴァレンヌ逃亡事件から僅かに時が流れた三ヶ月後の9月、憲法発布の際
国王の書簡が非常に感動的であった事も助けとなり、王室への信頼もこの時
やや回復したようで、この日記の記録者さんも
「1789年7月14日の革命の日から続いた闘争の結果、今度こそすべてが完成したのだ
~略~
国家は一つにして全体である。そうなることを期待して秩序を回復しなければならない
しかし、これが本物かどうか、民衆に本当にふさわしいものかどうかを教えてくれるのは
時をおいてほかにない。時こそ偉大な教師なのである。」と結びます。
…うん。やや哲学者的な表現でしょうかこの書き手さん。
このようにこの時代の市民諸君、当事者の人々も、7月14日のバスチーユ包囲を
革命始まりの日と認識していたのですね。
憲法布告の数日後、国王一家はオペラ座やコメディー・フランセーズへ行幸し
最大の拍手で迎えられたりもしています。逃亡事件など欠片もなかったかのよう。
ちなみにこの時のオペラ座の演目は"カストールとポリュクス"でした。←わくわく
けれども一年後、今度はチュイルリー宮で虐殺・暴動がおこり、避難した国王一家は
そのままタンプル塔へ移され、情勢は二転三転し恐怖政治へと移っていくのですが…
なんとゆーか民衆の…疑心暗鬼による集団ヒステリーも異様に怖いですわ~。
この日記の記録者さんは、そちら方面に参加している気配は皆無ですが、この頃の
真偽そっちのけで、とにかく殺っちまえー!って勢いで人を殺せるってなんなんでしょネ
1793年10月14日
マリー・アントワネットが革命裁判所に出廷し、第一回の尋問をうける。
15日午前4時、死刑の宣告。
16日正午、革命広場で処刑。
特別な囚人として、二輪馬車に一人のせられ、刑場へ運ばれた。
~略~王妃は白い部屋着姿であった。
14日の日記にそのまま書き加えた様子ですが、この三日間の記録はシンプルで
そのままあった事象のみ。感想等無し。
この日記、中盤からはギロチン処刑者リストばかりになっている印象があり
自分、読んでいて 「コレ、めでたいお正月に読むものじゃないネ… 」と少々後悔しました。
亡命貴族は本国へ戻りなさい、などという法令を出しつつ
戻った貴族は、ばっつんばっつんギロチンにかけられちゃってます。
月日、名前、年齢、どういう地位(立場)であったか一部理由なども記載され
貴族ばかりではなく第三身分の人々も…な極悪リストです。あ~あ
これ眺めてると、とてもじゃないけど、オスカルさんはパリに置いとけませんヨ。
もし生きていたら、という、ifですけどね。
革命の迷走ぶりに、ご本人様も悩まされ苦しむだろうし
難癖付けられ多勢に無勢、あっという間に捕まって殺されちゃいますわ。
ギロチンリストは斜め読みで流しましたが、他にはですね、時たま
ベルばらニュアンスを感じて、むふと思うトコロもありました。
1791年 2月26日
コメディー・フランセーズで「バスチーユ攻囲、または自由の獲得」観劇。
舞台には二門の大砲と50人のフランス衛兵がならんでバスチーユに
猛烈な砲火をあびせ、要塞守備隊がこれに応戦する。
ね~。
ね~。
オスカル様が銃弾に倒れたバスチーユの戦いの二年後には
それが芝居になっていたりするんですよ~~ナニコレ♪ナニコレ♪
1791年5月1日
4月14日宗教裁判所はカリオストロに判決を申し渡した
~略~
カリオストロのような一風変わった奇人は生かしておくべきだろう。
あの男の知識を無駄にしてはなるまい。彼は高等科学に打ちこんでいたのだ。
こちらはまったくベルばら無関係ですが、様々なフィクション作品に登場する
その元となったド・カリオストロについての記述。
同時代を生きていた一般人さんの見方って新鮮です。
判決は死刑となったものの、この数年後、結局獄死してしまうのでした。
今に伝わり残る歴史や、それにまつわる人物について、当時生きていた人々が
どのように感じていたのか、という部分が読んでいて面白いと感じる部分ですわ
こちらの日記の主さん、政治的な活動はいっさい関わっていませんが
時々パレロワイヤルに新聞を読みに行っていました。
文字さえ読めれば、当時在野の人であっても、結構なところまで
状況や情報が容易に得られたのかしら。(それともこの人自身が聡いのか?)
日記本体は書いたギタール氏の死後、他の物品と共に故郷へ送られ
そこから、さらに他県の名士の元へ所有が移り、数度の戦火を奇跡的に逃れた後
1930年、持ち主が死の直前、義弟へ託したことが出版のきっかけになったそうです。
※日本での発行は1980年(昭和55年)
こちらの本は革命期の歴史を裏付ける資料として出版され、この日本版は
抄訳のようですが、私レベルが齧り読みする分には十分でした。
私自身は政治闘争にはまったく興味がない(むしろ読みたくない)ので
逆にこういう一般人ポジションから歴史を眺められる方が面白みを感じますデス
227年前の日記。
フランス革命下の一市民の日記
セレスタン・ギタール著 中央公論社
記されている期間は1791年1月から、1796年5月まで。
ベルばらで例えると、オスカルさんが没した翌々年から始まり
王家に連なる人々が次々と姿を消したあと、ひとり残された
マリー・テレーズ王女が幽閉されていたタンプル塔から出され
スイス(経由オーストリア)へ移送されたその翌年までの記録。
ということでベルばら度はごく低く、ぶっちゃけ地味~な本でごじゃります。
書いたのは第三身分のブルジョアで、病弱な60代の年金生活者さん。
フルネームには自称で " ド "つけ、勲章も所有していたご様子。
もっともそれらは裏付けのない、この時代のどさくさ紛れに得た
いわば「見栄をはるためのもの」だったようで、社会制度の変化により
その価値がなくなった途端、処分してしまう記述もありましたが
この日記から見えてくるのは、十分な資産を用意していたはずなのに
物不足やインフレに悩まされる執筆者ギタール氏の暮らしと
その動乱期のパリの様子です。
ギタール氏の手稿(1794‐6部分)
ベルサイユのばら終盤に登場する大きな出来事として
バレンヌ逃亡事件がありますが、こちらを読んでいたら
それ以前にも、すわ逃亡か!?と市民を驚愕させた出来事がありました。
1791年 4月18日
チュイルリー宮の中庭をでたとき、馬車は民衆に阻止された。
有名なバレンヌ逃亡事件は、同年6月20日決行ですが、その二ヶ月前に
チュイルリー宮から、一家揃ってサン・クルーへ出発しようとしたところを
民衆に阻まれ、諦めて宮殿へ戻るという出来事がおこりました。
この日記の書き手さんは
「いまは五里霧中で未来にならないと自体ははっきりつかめない
~略~ このことにわたしは完全に打ちのめされてしまった」
と、やたら凹んでしまったご様子。
翌日、国王は議会で「サン・クルーへ行きたい」と演説するのですがあっさり却下され…。
民衆は " 国王が国(自分達)を捨てる " などという事が冗談ではなく、実際に起こり得る
のだという事に気がつき、親に見捨られる子供のような恐怖心をもったのかな~という
印象を受けました。見捨てられる、ではなく、裏切られる、という方かしら?
これがあったせいか、この後に起きたバレンヌ逃亡時の記録は、むしろ簡潔です。
そしてヴァレンヌ逃亡事件から僅かに時が流れた三ヶ月後の9月、憲法発布の際
国王の書簡が非常に感動的であった事も助けとなり、王室への信頼もこの時
やや回復したようで、この日記の記録者さんも
「1789年7月14日の革命の日から続いた闘争の結果、今度こそすべてが完成したのだ
~略~
国家は一つにして全体である。そうなることを期待して秩序を回復しなければならない
しかし、これが本物かどうか、民衆に本当にふさわしいものかどうかを教えてくれるのは
時をおいてほかにない。時こそ偉大な教師なのである。」と結びます。
…うん。やや哲学者的な表現でしょうかこの書き手さん。
このようにこの時代の市民諸君、当事者の人々も、7月14日のバスチーユ包囲を
革命始まりの日と認識していたのですね。
憲法布告の数日後、国王一家はオペラ座やコメディー・フランセーズへ行幸し
最大の拍手で迎えられたりもしています。逃亡事件など欠片もなかったかのよう。
ちなみにこの時のオペラ座の演目は"カストールとポリュクス"でした。←わくわく
けれども一年後、今度はチュイルリー宮で虐殺・暴動がおこり、避難した国王一家は
そのままタンプル塔へ移され、情勢は二転三転し恐怖政治へと移っていくのですが…
なんとゆーか民衆の…疑心暗鬼による集団ヒステリーも異様に怖いですわ~。
この日記の記録者さんは、そちら方面に参加している気配は皆無ですが、この頃の
真偽そっちのけで、とにかく殺っちまえー!って勢いで人を殺せるってなんなんでしょネ
1793年10月14日
マリー・アントワネットが革命裁判所に出廷し、第一回の尋問をうける。
15日午前4時、死刑の宣告。
16日正午、革命広場で処刑。
特別な囚人として、二輪馬車に一人のせられ、刑場へ運ばれた。
~略~王妃は白い部屋着姿であった。
14日の日記にそのまま書き加えた様子ですが、この三日間の記録はシンプルで
そのままあった事象のみ。感想等無し。
この日記、中盤からはギロチン処刑者リストばかりになっている印象があり
自分、読んでいて 「コレ、めでたいお正月に読むものじゃないネ… 」と少々後悔しました。
亡命貴族は本国へ戻りなさい、などという法令を出しつつ
戻った貴族は、ばっつんばっつんギロチンにかけられちゃってます。
月日、名前、年齢、どういう地位(立場)であったか一部理由なども記載され
貴族ばかりではなく第三身分の人々も…な極悪リストです。あ~あ
これ眺めてると、とてもじゃないけど、オスカルさんはパリに置いとけませんヨ。
もし生きていたら、という、ifですけどね。
革命の迷走ぶりに、ご本人様も悩まされ苦しむだろうし
難癖付けられ多勢に無勢、あっという間に捕まって殺されちゃいますわ。
ギロチンリストは斜め読みで流しましたが、他にはですね、時たま
ベルばらニュアンスを感じて、むふと思うトコロもありました。
1791年 2月26日
コメディー・フランセーズで「バスチーユ攻囲、または自由の獲得」観劇。
舞台には二門の大砲と50人のフランス衛兵がならんでバスチーユに
猛烈な砲火をあびせ、要塞守備隊がこれに応戦する。
ね~。
ね~。
オスカル様が銃弾に倒れたバスチーユの戦いの二年後には
それが芝居になっていたりするんですよ~~ナニコレ♪ナニコレ♪
1791年5月1日
4月14日宗教裁判所はカリオストロに判決を申し渡した
~略~
カリオストロのような一風変わった奇人は生かしておくべきだろう。
あの男の知識を無駄にしてはなるまい。彼は高等科学に打ちこんでいたのだ。
こちらはまったくベルばら無関係ですが、様々なフィクション作品に登場する
その元となったド・カリオストロについての記述。
同時代を生きていた一般人さんの見方って新鮮です。
判決は死刑となったものの、この数年後、結局獄死してしまうのでした。
今に伝わり残る歴史や、それにまつわる人物について、当時生きていた人々が
どのように感じていたのか、という部分が読んでいて面白いと感じる部分ですわ
こちらの日記の主さん、政治的な活動はいっさい関わっていませんが
時々パレロワイヤルに新聞を読みに行っていました。
文字さえ読めれば、当時在野の人であっても、結構なところまで
状況や情報が容易に得られたのかしら。(それともこの人自身が聡いのか?)
日記本体は書いたギタール氏の死後、他の物品と共に故郷へ送られ
そこから、さらに他県の名士の元へ所有が移り、数度の戦火を奇跡的に逃れた後
1930年、持ち主が死の直前、義弟へ託したことが出版のきっかけになったそうです。
※日本での発行は1980年(昭和55年)
こちらの本は革命期の歴史を裏付ける資料として出版され、この日本版は
抄訳のようですが、私レベルが齧り読みする分には十分でした。
私自身は政治闘争にはまったく興味がない(むしろ読みたくない)ので
逆にこういう一般人ポジションから歴史を眺められる方が面白みを感じますデス