2020年10月

会場は静岡県御殿場市。
NHKのど自慢、再開したのね~
と、なにげに眺めていたら
11番” 薔薇は美しく散る ” 御登場。
熱唱 → 合格

201025c

歌いあげる系
パワフルなバラさんでしたナリ




本は大判だけど、コンパクトにまとまってるなぁ
と思ったらINAX発行。ご本家発行のトイレ通史でした
その中からフランス関係だけ抽出メモメモ。


ヨーロッパ・トイレ博物誌
(海野弘他 INAX出版)より

inax

ヴェルサイユ宮殿には、背もたれ、物入れなどの
豪華な調度つきコモード式トイレがあり、ルイ4世の使った
そのトイレは構造的にはおまるであった。
またヴェルサイユ宮殿の財産目録には274の椅子トイレが記載され
うち208は下に受け皿だけのもの、86が引き出し付きの高級家具で
ビロードが張られ、房飾りがついていて、各寝室の隣の衣装小部屋に
収納されていた。

ルイ14世は英国式トイレ、テラスの貯水槽と糞尿溜めへ
鉛管で繋がれたものを使っていたと伝えられる

ヴェルサイユ宮殿が作られたばかりの時代
目録に載っているという事は、財産扱いされるレベルの
立派な家具タイプだけを記録したという事かしら?
簡素な裏方用は、財産扱いしないだろうから除外~。
部屋タイプがあったとしたら宮殿の設備という感覚かな?



1710年 ヴェルサイユ宮殿にビデが登場する

1722年 パリには排泄物と死骸のための廃棄場が3つあった
(王令によってセーヌ河に汚物を流すことが禁じられていたため)

1728年 ルイ15世は新式の浴室をヴェルサイユ宮殿に設置した

1739年 パリの舞踏会でトイレのある部屋のドアに、はじめて
男女が区別して表示された

1771年 オルレアン公はパレ・ロワイヤルに12のトイレを造らせ
紙は無料で使用料2スーで使わせて営業した


あの壮麗なヴェルサイユ宮殿にはトイレがなかった、といった
言い方がされたりする。
これは正確ではないが、たしかにトイレは少ない。
つまり、クロース・ストールがつかわれていたのである

高級家具タイプのトイレがメインに使われていたため
固定された部屋タイプのトイレは少ない。という事ですか。
家具タイプが便利だったせいで、今風の個室トイレの発達が
遅れたかもしれないそう あらま~


ルイ14世の末期に、英国式椅子がすでにフランスでつくられ、
ルイ15世やルイ16世、マリー・アントワネットも
この英国式トイレを使っていたと述べている。
英国式トイレとは水洗式を意味している。

王家の人々が ”英国式” トイレを利用していたのは
確かなようだけど、ルイ16世時代には、同じく英国から伝わった
ドライ・プリヴィーというタイプが利用された可能性も…。
水ではなく使うのは土。

家庭のトイレとしては、アース・クローセットでは、
ウォーター・クローセットに先行している。
しかし両者の操作原理は同じで、一方が乾いた土を使い、
もう一方は水を使うのである。

なるほろ~猫砂のようにかぶせる式なのにゃ。
土で覆ってしまえば匂いも即時シャットアウト




ca

このカレーさんとは今までご縁がありませんでしたが
いつの間にかコラボ美味しい組の通販が始まっていました。
カレーの販売元って、ジュエリーカミネだったんですね~。


  ベルサイユのばら紅茶&カレーセット 
袋付

ほにゃ~
個別売りのほか、ペーパーバック付きセットも…って
ここでもグリコのおまけ攻撃にゃ!迷…


b






王妃の頭を、盛り盛りにした髪結いさんの伝記。


  マリー・アントワネットの髪結い 
 ウィル・バショア 原書房
kamiyui

漫画:傾国の仕立て屋で見かけるうちに
なんとなく興味をひかれ、読み読み

1838年に出版された『レオナールの思い出』を底本とし
他の史料で裏付けを取りながらまとめられており
それでも書かれている事が全部史実に忠実かといえば
微妙…な部分もあるけど面白かったデス。読み物として。

この髪結いさんについては、元々1794年にギロチンで処刑説と
1820年に自然死説があったそう。
こちらの本ではその点を、髪結い“レオナール”を称する人物が
三人いた説を展開して解明。
レオナールから髪結いの仕事を受け継ぎ、その名を利用した弟たちが
レオナール2号・3号だったということで。商号ぽいかな?


レオナールの回想録は、本人も認めているとおり、ガスコーニュ人の
作である。どの場面でも、自分の役割は大げさに描いてある。

うんうん。その気配はありましたです
特にベルサイユ宮殿襲撃→王家の人々をパリへ移送。
この場面での姿は、ちょいと出来すぎ君でしたネ

髪型を作っていく場面の描写が多くなかったのは
元よりモード本ではないので仕方ないけど、やや残念。

ヴァレンヌ逃亡開始の直前に、髪結いのレオナールが
ブイエ将軍に密書を運ぶ場面は、冒険小説のようでしたが
一方、弟のレオナールも同時にこの逃亡劇に一枚噛んでいて
知らず逃亡失敗の遠因となっていたとか…なんてこったい


以下、私的 お? と思った点みっつ。

幼い王太子妃は中州にある建物の「オーストリア側」の
玄関から入ったが(歴史家たちが記述したように)祖国からのものは
何ひとつ持っていかないよう一糸まとわぬ姿になる必要はなかった。
この古い慣習はとうの昔になくなっていたのである。

ほぉ~~儀礼ガチガチのところにも変化はありましたか。
何一つ持ち込めない、というわりには後日
オーストリアの品が登場するのが不思議でした。
この時、持ち込めなかったものは、別便でベルサイユに
届いたのかな?と想像してましたわ~。

「パンなんて、彼らにはぜいたく過ぎますよ」
この工場主はただちにその界隈から追い出された。

日給を下げ非人道的発言をし、追い出されたとされる工場主。
この発言自体が曲解(捏造?)されたもので、逆上した人々から
逃げ回るはめになったという別の真相を、ほかの本で
読んだ事がありました。
本書では、うわさをそのまま採用した形なんですね。
大筋に影響しない部分だから平気なのかもしれませんが。


デュ・バリー夫人が王家を助けるためには、フランスを
出るしかなかった。
夫人はルーヴシエンヌやその他の町の役人に、自分はロンドンに
盗まれたダイヤモンドを探しに行くのだと信じ込ませた
(あくまでも旅の口実にすぎないのだが)

初耳~~この解釈は読んだ事なかった!
亡命者の援助もしていましたが、フランスの館(にある財産)
そのままにしておく事が出来なかった様子。

危険についてはすでにいろいろと耳にしていたにもかかわらず、
絶対にフランスに帰るつもりだと言い、レオナールを愕然とさせた。
~略~
「私は42歳で、もう色恋沙汰はスープや牛肉と同じ。
何のときめきも感じなくなりました。でもひとつだけ、燃えてしまった
ミルテの灰からなお立ちのぼってくる情熱があるの。
それは私の胸を焦がすものではないけれど、私の頭はそのことで
いっぱいなの。私は、自分の財産に夢中なのよ」


こちらの御本、ベルばらファンとしましては、英国での
デュ・バリー夫人の動向や、ヴァレンヌ逃亡部分が興味深かったデス
(逃亡失敗は、それでもやっぱり可哀そうなんですけど)







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