2022年08月
ベルばらは永遠に ♪チケット
誕生50周年記念 ベルサイユのばら展ーベルばらは永遠にー
チケット販売始まり
始まり
うきゃ♪うきゃ♪


会期ひと月前になっても告知がないので
ちょっぴりやきもきしたけれど、蓋を開けてみたら
やはり今どき流、密集回避に事前予約制でしたネ。
※空きがあれば当日券販売
『〇月〇日〇時に入場可能』という入場指定制だけど
会場内での、滞在時間に制限があるかどうかは不明。ないかな?
う~ん
50周年展公式サイトはまだ情報不足にゃ


グッズ付チケットは、東京シティビュー専門オンラインだけの
取り扱いだし、入館対象期間の設定があったりするのでまずは会場である東京シティビューのサイト案内で
チケット詳細を確認してから計画したほうが安心ネ

さて遠征組としては、いつ行けるかな~~?








ジャンヌ回想録
ジャンヌ執筆の回想録本が公開されていました。
わ~い
こんな簡単に見られるなんて~




といっても読めません。仏語わかんない…
Oh my god

フランス国立図書館の 電子図書館Gallica


『 Mémoires justificatifs de la comtesse 』
電子図書館は、画像として表示された頁単位で
テキストが表示されるのが良いところ。
がしかし。
それを利用してのフランス語→日本語訳は微妙微妙。。。

血筋の事をいってるな。宮廷での出来事を言ってるな。
という程度のニュアンスはわかりますが、文章としての流れ
こまかい理解はなんとも難しい

言語が古いから?それとも画像からのテキスト化が甘いのかしら?
私のやり方がマズいのかもしれませんが(web翻訳利用デース)
これとは別にgoogle bookにも同著が在るものの
こちらの方の翻訳も、そう大差ない感じでした。
英訳した方がいいかも、というアドバイスをもらったので
仏語→英語→和訳したら、仏語→和訳よりもまともになりほくほく♪

私が女王に枢機卿の名前を出したのは初めてでしたが、女王陛下が
枢機卿との距離をどの程度まで縮めているのかがよくわかりました。
彼女はしばらく黙ったまま、深く考えているようで
目を覚ましたときのような口調で私に言った。

女王は決して彼の名前を発音せず、彼と少しでも関係のあることは
口にしないので、私の指導はすべて無駄になってしまい
一言も口を挟むことができませんでした。
そしてついに、私の役割を果たすべき事態が発生したのです。

枢機卿が反抗的に見えた瞬間から、彼は自信を持ち
私は彼の行動を啓蒙する決断をしたのです。
彼は託した手紙をすぐに私に伝えることはしませんでしたが
私は女王の代理として彼に渡す手紙をすべて見なければ、
その往復を不完全にしか認識できないと考えました。したがって
私の手で往復するすべての手紙を双方から写すという計画を立てました。

他のものはほとんど、あるいはまったく意味を持たず
受け取る前に焼かれてしまったからです。
枢機卿が時々読み返したがる王妃のものは、金庫ではなく個室に預けられ
私はそれを調べて書く方法を考えなければなりませんでした。

役割を果たすにふさわしいのは、彼女デモワール・オリバであり
もし彼女が反対しなければ、彼はその選択をするように仕向けるだろう、と。
そこで同じ日の夕方、約束通り、私は夫と一緒にこの少女の家に行き
彼女が従うべき行動をいくつか指示し、400ポンドの札を彼女に託しました。
翌日、伯爵は彼女をヴェルサイユに連れて行きました。
朝は私が先導し、彼らは夜の初めに到着しました。
しかし私は女王の連絡が間に合わず、翌日の時刻を真夜中半に定めたことを警告しました
この辺が一番まともに訳せてるかな?と思えた部分。
この回想録では王妃と枢機卿が互いに交換した手紙の内容が
書かれていました。ジャンヌが写し取ったという
往復書簡。

読んでたら危うく「そーだったんかー」みたいな気分になりかけましたヨ。
コレ、当時の一般庶民がなった感覚かも~~~
あぶないあぶない

あくまでもこの回想録はジャンヌにとっての真実。
彼女が信じて欲しがった内容。
事実がどうであったかは、もうずっと謎になるんじゃないかな。
私的には現在一般に知られているものは、どこまでも”通説”と思ってます。

国立公文書館 2
国立公文書館には、ルイ16世がチュイルリー宮にいるとき
書いていた日記などもあり(フランス語読めませんが
)

筆跡をみては生真面目そう…と思ったりしていましたが
他に王妃のドレス用布見本をまとめた台帳などもありました。

緑色の羊皮紙で綴じた台帳には、赤、青、緑のシーリングワックスの点
または糊で固定した布のサンプル78枚と、サンプルに関する手書きのメモ
見出し、コメントなどが入っている。
この文書は、マリー・アントワネットの侍女であったオッサン伯爵夫人
この文書は、マリー・アントワネットの侍女であったオッサン伯爵夫人
ジュヌヴィエーヴ・ド・グラモンが所有していたものである。
これは1794年に革命当局によって他のドスン夫人の書類とともに押収され
国立公文書館に保管された。
~略~
1774年以降、王妃の家計は大幅に増加したため、ドスン夫人は、
有名なマドモアゼル・ベルタンなどの服飾商に支払うべき金額を
正確に計算するなど、厳格な管理を任されていた。

ただこれは、王妃がピンを指して選んだという逸話ある台帳ではなく
たくさんあるドレスを管理するために使われていたもののよう。
中は肝心の生地が剥がれ落ちている部分も多いのが残念ですが
この色や模様を使ったドレスを持っていたのか…と想像するのが
私的にはちょと楽しかったりして。。。
ふふふv

国立公文書館
フランスの国立公文書館で、王妃アントワネット関連の
史料が保存・公開されていました。
こんな簡単にみられたなんて知らにゃんだ~
便利にゃ~♪

日本も公共機関でのウェブ・アーカイブやデジタルギャラリーは
そこそこあるけど足元にも及ばないレベルの充実ぶり。
フランスは体制も見せ方も、全てにおいて御見事

国立公文書館
https://www.archives-nationales.culture.gouv.fr/

内容紹介の訳↓
コールナンバー440APは、1980年代以降に国立公文書館が取得した
コールナンバー440APは、1980年代以降に国立公文書館が取得した
王妃アントワネットに関する私文書を収容するために作成されました。
フェルセン文書、カンパン文書、ポリニャック文書です。
番号順は以下の通り。
440AP/1 王妃アンワネットとフェルセン伯爵の秘密書簡。1770-1804.
- アントワネットがフェルセンに送った書簡。1791-1792.
- アントワネットから姉のスペイン女王、母のマリー=テレーズ皇后、
番号順は以下の通り。
440AP/1 王妃アンワネットとフェルセン伯爵の秘密書簡。1770-1804.
- アントワネットがフェルセンに送った書簡。1791-1792.
- アントワネットから姉のスペイン女王、母のマリー=テレーズ皇后、
兄のヨーゼフ2世とレオポルド2世、ロシアのエカテリーナ2世、
オーストリア大使カウニッツ公、ポリニャック公爵夫人、
ショワズール公爵への書簡。
スウェーデンのグスタフ3世からアントワネットへの手紙
フリードリッヒ・フェルセン元帥から息子アクセルへの手紙。1770-1793.
- フェルゼンがアントワネットに送った手紙と覚書。1788-1793.
- 王室とヴァレンヌへの旅に関する書簡と文書。1791-1804.
- フェルゼンがアントワネットに送った手紙と覚書。1788-1793.
- 王室とヴァレンヌへの旅に関する書簡と文書。1791-1804.
440AP/2. ムッシュとマダム・カンパンの書類。1784-1788.
440AP/3. フェルゼンからダルムフェルト男爵への書簡。1793.
440AP/4. アントワネットからの他の書簡。1787-1791.
- アントワネットからポリニャック公爵夫人への書簡。1789-1790.
- アントワネットからの偽の手紙 1787-1791.

440AP/3. フェルゼンからダルムフェルト男爵への書簡。1793.
440AP/4. アントワネットからの他の書簡。1787-1791.
- アントワネットからポリニャック公爵夫人への書簡。1789-1790.
- アントワネットからの偽の手紙 1787-1791.

web翻訳を利用して整えてるので、大枠こんな感じ…レベルと
思ってください
(紹介文全体ではなく内容も抜き出した一部デス)

1792年2月の最後の面会の際、王妃はフェルセンにいくつかの書簡を渡し
フェルセンの死後、これらの文書は子孫であるピペル家と
クリンコフストロム家に渡り、レフスタ(バルナーヴとの書簡)と
スタフスンド(フェルセン文書)に保存された。
この家族文書館には、フェルセンがアントワネットから受け取った手紙や、
フェルセンがアントワネットに送った手紙の議事録も保管されていた。
フェルセンの子孫が所有していたアントワネットとフェルセンの書簡は、
1982年に売りに出され、国立公文書館が購入した(440AP/1)
この家族文書館には、フェルセンがアントワネットから受け取った手紙や、
フェルセンがアントワネットに送った手紙の議事録も保管されていた。
フェルセンの子孫が所有していたアントワネットとフェルセンの書簡は、
1982年に売りに出され、国立公文書館が購入した(440AP/1)
フェルセンの大甥であるルドルフ・クリンコフストロム男爵によって、
『Le comte de Fersen et la cour de France, Paris, 1877-1878, 2 vols. 』として
出版されることになった。
後者はここに保存されている4通を除いて、アントワネットからフェルセンへの
自筆書簡を破棄したものである(440AP/1、フォルダ1)
440AP/4と記載されている書類は、2005年にポリニャック公爵から購入したものである。
『Le comte de Fersen et la cour de France, Paris, 1877-1878, 2 vols. 』として
出版されることになった。
後者はここに保存されている4通を除いて、アントワネットからフェルセンへの
自筆書簡を破棄したものである(440AP/1、フォルダ1)
440AP/4と記載されている書類は、2005年にポリニャック公爵から購入したものである。

この通信が秘密と言われるのは、革命家の監視のもと、信頼できる人物の仲介で
帽子の裏地に縫い込まれたメモ、麻布の束に入れられたメモ、手袋、本、
新聞などによって、隠密に行われたからである。
マリー・アントワネットは、レモン汁と特殊インクを使って文字を隠し、
(ろうそくの光で紙を温めて文字を浮かび上がらせる)暗号も使っていた。
王室一家がタンプルに幽閉された後(1792年8月10日)アントワネットは
王室一家がタンプルに幽閉された後(1792年8月10日)アントワネットは
外部との連絡を絶ったが、ジャルジャイユ将軍にいくつかのメモを送ることはできた。
1793年処刑当日の朝、10月16日に義姉エリザベートに最後の手紙を送っている。
1791年6月28日から1792年8月10日の間に、アントワネットが
1791年6月28日から1792年8月10日の間に、アントワネットが
フェルセンに送った23通の手紙のうち、自筆は4通のみで、
他はフェルセンかその秘書、あるいは19世紀にフェルセンの孫甥の
クリンコフストロム男爵が作ったコピーであった。
この23通のうち、7通は一部または全部が暗号化されている。
そのため、アントワネットの手による原本、フェルセンの複製、
そのため、アントワネットの手による原本、フェルセンの複製、
クリンコフストレム男爵の複製など、
同じ手紙に複数のバージョンが存在することがある。
説明では自筆本・フェルセン本・クリンコフストレム本と表記している。
フェルゼンからマリー・アントワネットへの手紙は、暗号化して発送するために
フェルゼンからマリー・アントワネットへの手紙は、暗号化して発送するために
時には行間スペースに鍵が書かれていることもある。
フランス語が出来ない自分には、資料を判別するのもやっかいでしたが
例えば、検索窓に” Marie-Antoinette ”と入れると関連コンテンツが表示され①
上から3つめが、処刑前に書いた最期の手紙を紹介している頁②でした。

ここでは紹介文中の小画像をクリックすると③手紙本体が表示される形
『1793年10月16日午前4時、コンシェルジュリーの独房で
30分前に革命裁判所で死刑を宣告されたばかりの女性が次の言葉を書いた。
「私が最後に書くのは、妹であるあなたへの手紙です」
私は今、犯罪者にしかできない恥ずべき死ではなく、あなたの兄弟のもとに
行くことを宣告されたのです…』
線状降水帯
線状降水帯の破壊力を体感したので書き書き。
マジヤバでした

一級河川に隣接し水害注意の土地柄な我家。
避難準備して川の水量変化を注視する寝ずの番で
起きていた深夜2時、特別警報が発令しました。
真っ暗な外を照らしてみたら、既に家の周囲は水浸し。
線状降水帯が発生中。
(綺麗な話じゃなくて失礼
)

トイレを流すと普通の状態でなくなっていたため
お風呂も含め、急いで排水口を水嚢で蓋。
大きな川が決壊=越水・氾濫しなくても
家が水没する可能性がある…とは、こういう事か!?と実感。
うちの辺りはじわじわ水位上昇する感じだったけど
建物がごついコンクリ賃貸のおかげか浸水なくそのまま無事。
すぐ隣の地区は道路が川になっていて家屋へ浸水発生
地形や高低差、周囲の環境次第で随分結果が違いました。
主要河川はライブカメラや計測機器が備わっているので
そこから情報を得られるけど、ごく身近な家の周囲の状況変化
特に真夜中の異変察知は難しいですネ


一晩の雨だけでこれだけ削られちゃった

手前にあるのも山から崩れ落ちた土砂
対岸の山が傷んだのと同じように背後の山も崩れ中
このお盆の台風接近。
各地荒れそうですが被害最小限で済みますように…

線状降水帯の予報が出たところは、予報通り直撃すると
マジ!シャレになりませんから

その時々いる場所によって逃げ方が変わるので
一度は脳内シミュレーションして損はないと思いますヨ~。